2008年12月15日 (月)

小さな城下町

車で北に30分、仙台市郊外に、宮床(みやとこ)というところがあります。

T_imgp2148                      【七ツ森の一つですが山の名前はわかりません】

七つの山が連なっている「七ツ森」に抱かれるように、のどかな田園風景が広がっていますが、実は・・・。

江戸時代までは、伊達政宗の孫にあたる宗房を初代領主とする小さな城下町でした。

宮床伊達家です。

T_imgp2137                      【宮床伊達家住宅】

この宮床伊達家から、仙台藩中興の英主といわれた仙台藩五代藩主伊達吉村が出るなど、伊達宗家との繋がりは相当深いものがあったようです。

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T_imgp2136 【宮床伊達家住宅】

宮床歴史むらにある茅葺屋根住宅は、明治維新、最後の宮床伊達家の当主、十代伊達宗廣がお館下がりとなった時に移り住んだもので、以来伊達家住宅として使われてきました。

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屋敷はよく農家の間取りに見られる、整形田字型四間取りの質素なものですが、納戸を除く全ての部屋に一部面皮付きの長押(なげし)が打たれていることや、立派な釘隠しがあること、欄間の細かく繊細な彫りなどから、この屋敷の格式の高さがうかがえます。

T_imgp2139                      【橋と落ち葉】

その昔、小さいながらも城下町だったこの宮床には、宮床伊達家の遺跡をはじめとする数多くの歴史が息づいています。

T_imgp2140                      【池の中の立木】

また、宮床は歌人原阿佐緒生誕の地でもあり、生家が復元されて公開されておりますので、いずれ機会がありましたらご紹介したいと思っております。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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2008年11月30日 (日)

花巻同心組

南部氏警護の役にあった「花巻同心組」(後の「向御組町同心」)の屋敷が今も残されています。

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延宝8年(1680)に、花巻城の東、馬場口御門下に居住していた「花巻同心組」が、向御組町(現在の桜町)に移され「向御組町同心」となった頃の同心屋敷は、奥州街道を挟んだ距離にして100間(約180m)の間に、東西15軒ずつ30軒が配されていたといいます。

しかしながら、残ったのは2軒だけ・・・。

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昭和54年、この2軒は花巻市によって、元々あった場所からそう遠くない桜町の宮沢賢治詩碑入り口前に移築復元されました。

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この、旧平野家と旧今川家の屋敷は、いづれも江戸時代末期に建てられたもので、間口5間、奥行き3間の本屋部分に曲家等を増築した建築構造となっています。

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この簡素なつくりの2軒の家屋は、同心屋敷の典型的な遺構として大変貴重なものなのだそうです。

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最後までご覧いただき、有難うございました。

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2008年11月14日 (金)

平民宰相/原敬

この頃カメラを手にする機会がめっきり減ってしまいました。このブログの更新も実に2ヶ月ぶりです。

東北も秋が深まり、朝晩はだいぶ冷え込むようになってきました。紅葉もすでにピークが過ぎて、山の木々の殆どが葉を落として、厳しい冬の到来を待つばかりとなりました。

そんななか、今日は小春日和。秋のやわらかな陽射しに誘われ、久し振りにカメラを持って出かけることにしました。

以前から行ってみたいと思っていた「原敬記念館」へ。

T_imgp2095 【原敬生家とモミジ】

原敬記念館は、平民宰相と呼ばれた原敬の業績をしのび、ゆかりの資料を保存・展示するために、昭和33年に開館しました。

T_imgp2086 【原敬の生家は祖父直紀が嘉永3年(1850)に建てたもので、現在は5分の1程度が残っています。】

原敬は安政3年(1856)に盛岡藩士の直治・リツ夫妻の次男として生まれ、15歳の時、戊辰戦争の敗戦の屈辱を心に秘めて上京しました。

「共慣義塾」やフランス宣教師エブラルのもとで勉学に励み、新聞記者を経て明治政府の役人となり主として外務省を中心に活躍しました。

T_imgp2097_2                      【生家とその庭】

その後、井上馨や陸奥宗光に認められて外務次官まで昇進しています。

T_imgp2084                       【原敬が激務の合間に句作や思索にふけったといわれる別荘の8畳一間の書斎。昭和63年に鎌倉腰越から敷地内に移築。】

明治30年(1897)外務省を退官し再び言論界に戻り、大阪毎日新聞社社長としてその手腕を振るいました。

T_imgp2082【別邸・介寿荘の倉;赤レンガ総2階の重厚なこの倉は、大正3年盛岡大通り3丁目旧古川端に建築された。以来66年間同地にありましたが、昭和55年記念館敷地内に移築、「原敬日記」もこの倉に収蔵されていました。】

明治33年立憲政友会の創設に関わったのを機に政治家の道に入り、明治憲法のもとで政党政治の確立につとめました。

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明治35年、衆議院議員に立候補。(以後連続8回当選)

大正7年(1918)9月に首相となり、総理大臣としてわが国初めての本格的な政党内閣を組織、高等教育機関や鉄道網の整備に尽力しますが、大正10年(1921)11月4日、東京駅頭で凶刃に倒れ、その生涯を閉じました。

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記念館の敷地内には生家や、鎌倉から移築された腰越別荘の書斎、別邸・介寿荘の倉が保存されています。

今日のアルバムはこちらです。宜しければご覧下さい。⇒『原敬記念館』

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