« バラの甘い香りに誘われて | トップページ | ビル街のオアシス »

2007年6月24日 (日)

失意の遣欧使節

慶長18年9月15日(1613年10月28日)、

仙台藩士支倉常長ら遣欧使節団一行180余名を乗せ、

メキシコのアカプルコを目指して月の浦を出帆した帆船

「サン・ファン・バウティスタ号」が完全復元されて、

宮城県石巻市の渡波(わたのは)の海岸に係留公開されています。

T_l1000227_2

サン・ファン・バウティスタは

仙台藩主伊達正宗によって建造され、

日本で建造された木造様式帆船として初めて太平洋を二往復し、

その造船技術は当時の世界のトップレベルであったと高く評価されています。

T_l1000210_2

支倉六衛門常長は、

仙台領内でのキリスト教の布教を許可するのと引き替えに

メキシコとの通商を希望するとしたローマ法王へ宛てた伊達政宗の親書を携え、

約90日間の航海の後、

当時イスパニア領だったメキシコのアカプルコ港に入港しました。

ここでサン・ファン・バウティスタと別れを告げ、

イスパニア艦隊サン・ファン・デ・ウルーク号に便乗、

スペインの首都マドリードを目指しました。

T_l1000231

1614年12月20日、マドリードに到着した常長は、

翌年1月30日にはフェリペ3世に謁見し、

王宮近くのサン・フランシスコ聖堂を宿舎として、

ローマ法王との謁見の時を待ちます。

T_l10002211_edited1

そしていよいよ1615年11月3日、

常長はついにヴァチカン宮殿でローマ法王パウロ5世と謁見し、

宣教師派遣とイスパニア領国との通商を申し込んだのです。

常長はローマ市民権を与えられ、

ローマ貴族に列せられましたが、

法王は宣教師の派遣は同意したものの、

通商についてはイスパニア国王に一任しただけでした。

T_l1000217_2

法王との謁見を済ませ、

再びイスパニアに戻った常長でしたが、

長旅の疲れから健康を害し、旅費も底をついてきました。

それでも、

国王や法王にメキシコとの通商許可の請願を繰り返し

主命を果たそうとしましたが返答は得られず、

失意のなかで帰国を決意せざるを得ませんでした。

T_l1000224

メキシコまで戻った常長は、

迎えに来ていたサン・ファン・バウティスタに乗って帰国の途に着きます。

ところが、

フィリピンのマニラまで来たところでサン・ファン・バウティスタを

スペイン艦隊に買収されてしまったために、一般の貿易船に便乗、

長崎経由で元和6年(1620年)8月にようやく出発地月の浦に帰ったのです。

T_l1000233

しかし、

帰国した支倉常長を出迎えたのは労をねぎらう言葉ではなく、

仙台藩の冷たい態度でした。

7年間の旅の間に

伊達政宗もキリシタン弾圧政策をとる徳川幕府の体制下に収まっていて、

正宗にとって自らの野望の証でもある常長の帰国は

むしろ迷惑なことだったのでしょう。

T_l1000216

その後の常長は歴史の舞台から姿を消してしまって、

その晩年についても、墓がどこにあるのかもはっきりとしていません。

T_l1000232

何とも切ない慶長遣欧使節の結末ではありますが、、

常長の偉業を後世に伝えるために、

このサン・ファン・バウチスタ号の復元をはじめとして、

宮城県大郷には「支倉常長メモリアルパーク」が建設されるなど、

宮城県人の心の中には「英雄 支倉六衛門常長」が

今なお生き続けているのです。

今日の写真はこちらです。⇒「サン・ファン・バウティスタ号」

最後までご覧いただきありがとうございました。ブログランキングに参加しております。宜しければクリックお願いします。⇒にほんブログ村 写真ブログ 建物・街写真へ

|

« バラの甘い香りに誘われて | トップページ | ビル街のオアシス »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 失意の遣欧使節:

« バラの甘い香りに誘われて | トップページ | ビル街のオアシス »