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2007年10月20日 (土)

智恵子の里/安達太良

高村光太郎が妻“智恵子”との30年にわたる純愛をつづった詩集“智恵子抄”。

1941年出版のこの詩集は、今なお多くの人々に感動を与えています。

誰しも1度は耳にしているフレーズ、「智恵子は東京に空がないと言ふ、ほんとの空が見たいと言ふ・・・・」。

その智恵子の生家が、安達太良山のふもと安達の町に、当時の面影そのままに復元され公開されています。

【智恵子の生家】

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智恵子を育んだ“生家”は、屋号を“米屋”という造り酒屋で、

ここでつくる「花霞」(酒銘)は明治初期当時売れに売れていたらしく、ずいぶんと繁盛していたようです。

【帳場】

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【奥座敷】

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智恵子が生まれて日本女子大学に入学するために東京へ移るまでの18年間、

智恵子はここで何不自由なく育ちました。

この“生家”のご近所に住む、当時の長沼家を知るご老人によると、

「何不自由なく」というよりはむしろ「贅沢三昧」の生活だったとのお話でした。

まぁ、真偽のほどは分かりませんが、福島の高等女学校への通学は、

安達駅まで人力車で送り迎えされていたようですし、

長沼家の二人の娘を大学まで進学させているところをみると、

相当なお金持ちだったことだけは確かだったようです。

【裏庭】

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智恵子は、明治36年日本女子大学進学のため住み慣れた故郷を離れ上京します。

大学卒業後も洋画家の道を進むために東京に残り、明治45年、

高村光太郎と初めて出合ったのは智恵子27才の時でした。

光太郎はこの時から、智恵子のための詩を書き始めます。

【この階段の先の一間が智恵子の部屋】

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智恵子と光太郎は大正3年12月に、駒込林町のアトリエで二人の生活を始めますが、

光太郎の父“高村光雲”から時々廻してもらう仕事で立てる彼らの生計は窮乏を極めますが、

それでも二人は、一緒に創作活動が出来る喜びのなかで、お互いの愛を深めていきます。

その後暫くは、窮乏の中でも充実した制作生活が続きますが、大正7年、33才の時、

智恵子は父“今朝吉”を失います。

その死は次第に二人に暗い影を落とし始めます。

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今朝吉の死から11年後の昭和4年、長沼家破産。

このときの心労が祟ったのでしょうか、

昭和6年、智恵子に精神分裂症の最初の徴候が現れます。

その後一進一退を繰り返しながら、病状は徐々に悪化。

昭和13年10月、とうとう息を引き取ります。智恵子53才でした。

智恵子の生家の裏庭には、酒蔵をイメージした“智恵子記念館”があります。

ここには、病に侵された智恵子の“奇跡の紙絵”の世界が広がっていて、それはそれは見事です。

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