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2008年4月 5日 (土)

二本松少年隊の悲劇

【二本松城箕輪門(復元)】

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幕末から明治にかけての動乱期、自らを官軍とする薩長連合軍に対し、

東北31藩は奥羽越列藩同盟軍を組織しこれに抗戦、

ついには朝敵の汚名を着せられたまま戦いに敗れ、悲惨な最後を迎えることになります。

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とりわけ会津藩の16歳から17歳の少年兵だけで組織した「白虎隊」の辿った

あまりにも悲しい物語は今の世にも語り継がれ、聞く人々の涙を誘っています。

会津「白虎隊」は映画化されるなど誰もが知るところですが、主君のために戦い、

散っていった少年たちの悲劇の物語が他にもう一つあったことは

あまり知られていないのではないでしょうか。

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13歳から14歳の、年端もいかない少年たちで組織された「二本松少年隊」です。

この少年達が育った二本松藩は、

岩代国安達郡(現在の福島県二本松市)に二本松城(霞ヶ城)を構え、

幕末期の石高は10万700石でした。

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慶応4年(1868)、倒幕派と佐幕派の争いは戊辰戦争へと発展し、

戦火はいよいよこの二本松藩にも迫って来ます。

時の藩主第10代丹羽長国は奥羽越列藩同盟に参加し、

二本松藩の精鋭を引き連れ、薩長連合軍に戦いを挑みますが、

最新式の武器を装備した敵にはかなうはずもなく、

各地で敗戦を重ねるしかありませんでした。

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主力藩兵を戦地へと送り出した二本松城には老人と女子供しか残っておらず、

手薄となった城を守るために、少年達は会津白虎隊にならい少年兵の出陣を嘆願します。

13歳・14歳の少年達の願いは、

そのあまりにも幼い年齢がゆえに、聞き入れてもらえるはずがなく何度も取り下げられました。

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しかし戦火ますます迫り、

しかも主力部隊が板垣泰助率いる西軍に退路を絶たれ城に帰り着くことも出来ず、

とうとう二本松藩は苦渋の決断を下すことになります。

いよいよ、二本松少年隊の出陣です。

少年達の家では急な出陣のために準備が間に合わず、

母親達は夜を徹して父親の着ていたものを縫い直して軍服や陣羽織を作って

少年達に着せたと伝えられています。

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こうして、日頃少年達に西洋砲術を指南していた木村銃太郎を隊長に、

少年隊は武士として出陣出来る大きな喜びを抱きながら、必勝を胸に、

意気揚々と箕輪門をくぐり戦場へと繰り出します。

この時、二本松城落城のわずか2日前のことでした。

西軍との戦いはまさに大人と子供の戦い、

それでも少年達は古畳で胸壁を築き、銃や大砲で果敢に戦いました。

しかし、この激戦も二時間と続かず、隊長の木村銃太郎は戦死、

少年達の多くも傷つき、命を落とす結果となってしまったのです。

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二本松城跡を訪れると、

復元なった箕輪門の前の広場、

藩兵揃えに使われ少年隊もここから出陣したと伝えられる「千人溜」に、

敵と勇敢に戦う二本松少年隊の群像が目に入ってきます。

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その群像の傍らに、明日出陣が決まった息子のために、

戦装束を整えている一人の母親の姿があります。

まだ親に甘えていたい年頃の、愛するわが子の死にゆく運命を承知しながら、

夜を徹して針を運ぶ母親の心情を想うと、何とも切なく、

込み上げて来るものを抑えることが出来ませんでした。

【茶室(江戸期)】

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