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2008年7月26日 (土)

染子と吉保の六儀園

諸田玲子著「灼恋」の最終章に次の一節があります。

元禄8年の4月22日、綱吉は保明に、4万7千坪に及ぶ駒込の地を下賜した。

「染子のために別邸を建てよ。費用を惜しむな。京を偲ぶ縁となるような、

典雅な庭園を造るのだ」

最上の庭、それもありふれた庭ではなく、染子に最もふさわしい庭園を造ろう。

残りの人生を染子のために庭造りに賭けるのだ・・・・保明は決意した。

早速、名匠を集めて造園に取りかかる。山を築き、池を掘り、水を引き入れ、

「万葉集」や「古今集」から名勝を選んで八十八景を取り入れるという壮大な構想である。

庭園の名は「六義園(むくさのその)」とし、館の名は「六義館(むくさのたち)と名づけた。

この庭園は、(りくぎえん)とその呼び名を変え、駒込の地に今でも残っています。

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時の将軍綱吉と権力者柳沢吉保、

そしてこの小説の主人公染子が織り成す衝撃的な物語を読み終え、

その歪められた愛の結晶ともいえる「六義園」を一目見たいとの衝動を

どうしても抑えられず、早速ライカD-LUX3とともに東京行き新幹線に

飛び乗る仕儀と相成ったのでございます。

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小説「灼恋」は、

柳沢吉保の側室「染子」を、時の将軍綱吉からの拝領妻として描いています。

小説の冒頭はこうです。

五代将軍綱吉は体を離し、ごろりと仰向けになった。

波にもまれる小舟のように、染子はまだ身を震わせている。

昂ぶりが鎮まるのを待って身を起こすと、綱吉は目を閉じ、荒い息を吐いていた。

染子の耳に隣室の声が戻ってきた。

側用人の柳沢出羽守保明(後の吉保)がよどみなく「論語」を読み上げる声だ。

そうせよと命じたのは綱吉。いとしい男の声が羞恥を呼び覚ます。

染子はふるえる指で脱ぎ捨てた間着を引き寄せた。

とある日の柳沢吉保邸内。なんとも衝撃的な出だしで物語が始まります。

このとき染子はすでに吉保の側室となっていましたが、

この後も幾度となく3人の常軌を逸した関係が続くことになります。

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当時、主君のお手つき女性を家臣に下げ渡すことはまれにあったようです。

しかし、この場合、すでに吉保の側室となってしまっている染子を、

綱吉はその後も連綿として想い続けたこと、一方吉保の側でも、

主君からの預かり人としてのみで染子に接するのであれば何の問題はないのですが、

そうではなかったことが、一層悲しみ深い物語にしています。

日増しに強くなって行く、吉保の染子に対する想い。

一つ屋根の下に住まい、しかも我が側室であるはずの染子ではあったが、

綱吉の手前どうすることも出来ないまま、ただいたずらに月日が過ぎていきます。

一方染子も、綱吉の呪縛から解き放たれ、名実共に吉保の側室として過せたなら、

どんなに幸せなことかと強く思うようになります。

二人の相手を想う気持ちが最高潮に達したときに、この物語はクライマックスを迎えます。

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舞台は柳沢邸。

吉保が「論語」 を読み上げている隣の部屋で綱吉が染子を抱くという、

3人の登場人物による忌まわしい儀式が漸く終わって、

いつものように綱吉が吉保を呼びつけ、体を清めさせています。

染子が己が髪を切り落とすために用意していた短刀が、

いつの間にか吉保の手に握られているではありませんか。

以下「灼恋」からの抜粋です。

染子は一瞬のうちに悟った。

殿(吉保)はわらわのために絆を断ち切ろうとしている。

主君の息の根を止め、おそらくその後はご自分のお命も・・・。

ことをおこさせてはならぬ。だが、短刀は保明の手にある。どうしたらいいのか。

蒼白になったそのとき、染子の中のもう一人の染子が叫んだ。

「顔を焼け」

染子は悲鳴を上げ、火鉢を押し倒した。こぼれた炭の上へ身を投げる。

真っ赤に焼けた炭に右頬を押し付けた。

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じゅっと異様な音がして、激痛が脳天を突き抜けた。肉の焦げる臭いが立ちのぼり、

染子は意識を失った。

保明と綱吉は同時に染子に目を向けた。

なにが起こったか、二人ともとっさにはわからなかった。

最初にわれに返ったのは保明である。「水だ、水を」保明が狂ったように叫ぶ。

綱吉はあわてふためいて、枕辺の水盥を引き寄せた。染子の全身に水をかけ、

もう一度頬の炭をひっぱる。炭と一緒に、頬の皮がめくれた。

綱吉は奇声を上げ、尻餅をついた。

保明は染子の頬に、自分の頬をおしあてた。寡黙にして冷静沈着、

生真面目でおよそ感情を表したことのない保明が、

今、染子を抱きしめ、焼けただれた頬に頬をおしあてて号泣していた。

・・・と、何とも凄い場面です。

一命は取り留めたものの、染子は二度と人前には出られない顔となってしまいました。

綱吉が染子のために駒込の広大な土地を吉保に下賜し、

吉保が染子のためにここに日本一の庭園を造ろうと決意するのは、

この事件から間もなくのことでした。

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この物語が史実に忠実なのかどうかは別として、

今日、こうして写真を撮りながら見事なこの大庭園を散策していると、

染子にとっては、吉保が造ってくれたこの「六義園」で過した数年が、

彼女の人生のなかでも最も幸せな時期だったのではないか・・・と、

そんな気がしてなりませんでした。

宝永2年5月10日(1705)、染子はこの「六義園」で永眠しました。行年39歳でした。

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当の吉保も、吉里に家督を譲って隠居の身となってからはここで暮らし、

正徳4年(1714)11月2日、57才でその生涯を閉じることになります。

「六義園」は吉保の没後次第に荒廃しますが、明治時代に入って、

三菱の創業者である岩崎弥太郎の別邸となり、

その後昭和13年(1938)に岩崎家より東京市に寄付されました。

そして昭和28年(1953)、国の特別名勝に指定され現在に至っております。

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最後までご覧頂きありがとうございました。

今日のアルバムはこちらです。宜しければご覧下さい。⇒「六義園」

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