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2008年8月24日 (日)

郡山市発展の礎

地理的条件の良さを生かした交通網が発達し、

陸の港として人・物・情報が行き交う交流拠点である郡山市は、

福島県内はもとより東北の経済をリードする商都として発展を続けてきました。

しかし、江戸時代末期の郡山は小さな宿場町でしかなく、

水利に恵まれなかった郡山の周辺には、荒れた原野がただ広がっているばかりでした。

その人口5000人足らずの「郡山宿」が東北第2の人口を擁する

「郡山都市圏」にまで発展するきっかけとなったのが、

明治政府の「安積(あさか)開拓」事業でした。

所用で郡山に来たついでに、

今日は、郡山市の近代史を語る上で最も重要な「安積開拓」に

ふれることが出来る「開成館」を訪れてみることにします。

【安積開拓の象徴「開成館」】

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【明治7年に建築された開成館には福島県開拓掛の事務所が置かれました】

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岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らとアメリカに渡り、

大規模な開拓を目の当たりにした福島県令安場保和(やすばやすかず)が、

明治5年、

大槻原の開拓を決意するところから「安積開拓」という壮大な事業が始まります。

安場から開発の全てを任せられた県の典事「中条政恒(なかじょうまさつね)」は、

旧二本松士族に移住をすすめるなど入植者の確保に奔走する傍ら、

郡山宿の富裕商人の出資による開拓会社「開成社」を組織します。

【洋風建築法が伝わっていない時代、開成館は地元の大工たちによって見洋見真似で建てられました】

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【開成館は明治9年の明治天皇東北行幸の折には、行在所として使用されました】

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こうして、県と開成社の共同による大槻原開拓事業はいよいよ動き出しました。

「商売以外に手を出すな」という家訓があり、

開拓に乗り気ではなかった商人達でしたが、

「各富豪ナリト雖ドモ邑ノタメ国ノタメ尽ス所ナクンバ守銭奴ノ侮辱免ルベカラズ

」と言って憚らない中条らの情熱についに心動かされ、

開拓事業は順調に進み始めるのです。

【安積開拓官舎「旧立岩一郎邸」】

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明治6年の開成社設立から暫くたって、

中条はこの大槻原の開拓を安積野全域に広げたいと考えるようになります。

そして明治9年、絶好のチャンスが巡ってきます。

明治天皇東北巡行の下検分のため、時の実力者、

内務卿大久保利通が郡山を訪れたのです。

【旧立岩一郎邸内部】

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中条はこの機を逃さず、「開拓を安積野全域に拡大するために、

猪苗代湖の水をこの地に引くことを国費でやって貰いたい」と強く要望しました。

明治12年、中条らの熱意がついに国を動かし、

時の政府は国営開拓第一号事業として

安積開拓に必要な「安積疎水」の開さくを決意したのです。

【安積開拓入植者住宅「旧坪内家」】

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この国営安積開拓によって、当時5000人の町の周辺に、

入植第一陣の久留米士族をはじめ、

岡山、土佐、鳥取、二本松、棚倉、会津、松山、米沢の各藩から

2,000人もの人々が相次いで入植しました

安積疎水の開さくによって、

猪苗代湖の豊かな水に潤わされた郡山は次第に肥沃な大地へと変貌し、

あの5,000人の町が今では34万人の東北地方の中核都市にまで

飛躍的に発展しました。

【安積開拓入植者住宅「旧小山家」】

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現在の郡山市は全国有数の米どころであるばかりではなく、

産学官連携によるインキュベーションセンターや県ハイテクプラザなどの

施設が立地するとともに、工業団地には多くの企業が進出し、

経済県都あるいは商都の称号を縦にしています。

今日のアルバムはこちらです。宜しければご覧下さい。⇒開成館

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